昭和50年以下不明 波多野家三十年霊祭 (末永信太郎) №50-134
御霊様の(生活?)というか、魂の世界での御霊の救われておられるというか、助かっておられる程度と(申すのですか?)。まあ、毎日、家内の立ててくれるお茶、または、(お薄?)なんかを頂いておられるというような感じですから、一時が万事に(進めておるだけ?)。まあ、言うならば、優雅な生活をされておるという感じでありますね。
今日の御霊のお祭りは、もう日々美味しい、なら、お茶を頂いて、それに順ずる言うなら生活をさせて頂いておるが、今日はいわゆる遺族親族の者が( )子供達も( )集まって、今日は笹屋かではあるけれども、茶会を開いたようなものだという意味のことを頂いたんですね。
やはり、それには、それは日々頂いておるという、そのお茶の味わいというものを、美味しいなあ、このお茶はというだけではなくて、そのただずまいというか、雰囲気というか、言うならばお茶の一つも出らせてもらうためには、正装、または、それに順ずる服装なども、ちゃっと心の中において、そして、その茶席に臨むように、そのように、(ひとみ?)さんが今日、まあ、その茶席に臨んで茶会に参加して、御霊様を中心にして、そういう茶会を開いておられるといったような感じですね。
御霊のお祭りというものは、そんなもんだと思う。はあ、本当に今日のお茶は美味しかったというだけではなくて、その雰囲気、その思い、真心の集まるその雰囲気が御霊様をこよなく喜ばせ、安らがせる。同時に、遺族の者も、まあ、三十年という長い年月の間の御霊様の御苦労を(察し?しゃし?)、そして、これからの御霊のまた、安らぎも助かりも祈り願ってからの、このお祭りであった。
今日の御霊のお祭りは、そういう感じでしたね。ただ、あの、お茶を味わうというだけなら、日々出けておるだけの、言うならばおかげを頂いておる御霊。けれども、今日は三十年という一つの節年に当たって、ね、こうした茶会を模様したような、皆がそれぞれに万事万端の上に、都合おくり合わせを頂いて、この席にいわば臨まれたわけ。御霊と共に、言うならばお茶の味だけではない、茶会の雰囲気を味われて、( )共に、本当に今日の茶会は良かったねとか、素晴らしかったねと、または、今日のお茶は美味しかったねと、今日のお茶請けも良かったねと、そういうようなで、御霊様が受けて下さった。また、なら皆さんの場合も、そういう言うなら雰囲気を頂いて、おかげにならなければ惜しいことだと思いますです。
ただ形質、ただ形だけというのではない。昨日、( )あの、吉井のこちらに(岩道?)というところがあります。娘さんが熱心に参って来る。お母さんが(れいゆうかい)という、やっぱり宗教団体が、それも東京に会堂が出けたと言うので、そちらに行かれた。
それで、大変、まあ、おかげを頂いておられますので、汽車に弱いと言うので、その、こちらに御神米を頂いて行きたいと言うので、その娘さんがお願いに来ました。それで、御神米を二体下げさせて頂いた訳です。ご自分もやっぱり、ちょっと気分が悪うなられて、隣におられる人もやっぱり具合が、まあ、酔いやせんかというな状態です。それで、自分も頂いとる御神米を頂き、これは金光様の御神米ですよと言うて、それは(れいゆう会)のモンがアンタ、金光様の御神米頂いてもよかの、というなことだったらしいけども頂いた。おかげで、行きも帰りも、まあ、無事にと言うて、昨日二人でお礼に出てみえられました。
そうしてからの、まあ、話を聞かせて頂いたんですけれども、大したことだそうですね。毎日六千名の御信者が21日間集まるそうです。ね。しかも、その会堂がね、200億円かかったそうです。それはあ、もう、本当に見事なことだったそうです。そして、私はもう、尚もう一つ驚いたことにはね、それだけの、例えば信者をその東京の中心に寄せておいて、その、ただ法要的なことはあったにしても、お話が一つもなかったということです。もう私、これには驚きました。
もう、あらゆる宗教がです、そんなに例えば本部なら本部に集まって来るんですから、これを、その、まあ、PRをするはずです。また、教えの有り難いことを話すわけです。ところが、それは全然なかった。これには、私は驚きましたですね。ただ、その、教祖様的な方がおられました、何年か前に亡くなられた。
その遺言が、ご先祖を大事にして下さいという事だったそうです。だから、そのれいゆう会というのは、やはり、もう御霊専門に拝む。言うなら、ご先祖を大事にさえすれば、人間は幸せになれるという、もう、この一点針ですから、お話がない。ただ、この経文があげますと、2時間かかるそうです。
だから、2時間の経文を毎日(惰り?怠り?)なく、仏前に奉唱して。そして、御先祖を大事にして下さいということだけが、東京へ行って、ただ素晴らしかったということがお土産であるということと同時に、お話はそれだけであった。それで、まあ、帰る道々、二人でその話されたんだそうですけれども。
たしかに、やはりおかげを頂くからこそ、それだけ沢山の信者を用しておるし、信者もまた出来ておるし。また、あの、(地名主?)も大変多いそうですね。あの、石原新太郎さんなんかも、やっぱり会員だそうです。そして、やっぱおかげを受けておるから、やはり、お参りをするのでしょうが、結局はただ、先祖を大事にして下さいということだけが(信心?芯だ?)。
そして、毎日経文を2時間ずつあげさせて頂く。その間に、まあ、何と言うでしょうかね。宗教的一つの法悦と言ったようなものが、まあ、と例えばほんなら、お題目一つでも、なんみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれいげきょう、それこそ2時間もあげたら、確かに有り難くなれるだろうと思いますよね。
そういう宗教です。それでいて、んなら、200億からの会堂を建てるほどしの実力を発揮しておるというところに、私は一つの宗教のその、まあ、理屈ではない、まっ、凄まじさというか、ものを感じました。そして、その、二人の話を昨日聞かせて頂いてからです、先祖様はそれで助かりなさることになるのだから、ね、その、まあ、幸せになるということは、私どもが心が助からなければならん。そんためには合楽にお参りをして、お話を頂いて、心に悟りを開かせて頂いて、日々有り難いという心で過ごさせて頂くというおかげ、と。だから、金光様とれいゆう会と二つなら良かろうと言うて帰りましたという話を昨日してある。
まあ、本当にまあ、( )だと思いますけれどもね。これはただし、どうという事じゃないけれども、なら、金光様の御信心でもそうです。もう、御先祖を大事にする。もう、とにかく親を大切にしなきゃ、私はお参りをして来る方に初め必ず申しますことは、もう、親と名が付きゃみんな親なんです。ね。育ての親もありゃ、ね、産みの親もある。または義理の親もある。もう、親と名が付く親を本気で大事にする。言うならば、親に孝行、親に喜んでもらいたくてたまらんといったような心の人なら、必ずおかげを頂くよ、と。それはね、先祖を大事にすれば、幸せになるという、その理と同じことです。
天地が、私は喜びなさる。天地の親神様がその心根をめでたもう。だから、やはりおかげを頂くんだと思うんです。誰でも親不幸したいなんていう子供は一人もおりません。けれども、親孝行しとうてたまらんというのも、また、大変少ないです。もう、親の喜ぶ顔を見るのが、もう、一番の楽しみだというような親孝行の人は、また大変少ないです。ね。親孝行せにゃんと思うとるけれども、出けん。
せにゃんことは分かっておるけれども、出けんだけのこと。それを信心させて頂く者はそこにです、なら、親と名が付きゃ、親を大切にするという、その在り方を言うなら身に付けて行く。そこから、信心は例えばはじまる。教えを頂いて、心を開かせてもらう。それこそ最近、金光大神の世界ということを2~3日続けて頂いておりますけれども、金光大神の世界というのは、もう、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃと仰せられる。
あれということは、過去の一切。過去の一切があのことのおかげで、ということになって来なければならない。これもという事は、厳密踏まえておるところの、まあ、問題があるとすんなら、難儀があるとすんならば、それも難儀ではないんだと開眼する。その難儀も、そのままおかげであると感じれる世界を金光大神の世界だ、と。だから、金光様の御信心させて頂く者は、一切をおかげおかげで頂いて行けばというように、心を開くことに一生懸命、まあ、精進させてもらうと同時に、れいゆう会ではないですけれども、本気で御先祖を大切にさせてもらう。毎日、お仏壇のお掃除が出けておる。
生き生きとお花が(させて?)、お花の水が替えておる。朝晩、遺族の者がお汁粉をあげたり、(もくぎょう?)を叩いたり、鐘を叩いたりして、ご仏前に座って、例えば礼拝をさせて頂くという、そういう雰囲気がです、家庭の中に本当に、しかも1時間も2時間も、まあ、れいゆう会で言うならね。ね。例えば、夜の一時を家族中の者がご仏前に集まって、御先祖を敬うというような、私はそういうような情操が最近の、特に日本人の心の中には欠げて来たように思う。
今朝からのお話の中に、東京辺りでは、お坊さんが檀家にお回りになって行くと、先ず、だから、まあ、こういうお経の種類が、このお経をあげたらいくら、どこどこは自動車でお出でられるからガソリン代がいくら。それから、行ったお寺さんの、まあ、御布施がいくらという風に、まあ、定価表が出けておるということ。しかし、これも、もっともなことです。
坊さんだって、やっぱり生活がかかっておるのですから。けれども、その、金光様の御信心は、銭金では拝まんと教祖が仰るように、やはり、その伝統を受けておる、まあ、お道の信心では、まあ、そういう、その定価表などはないですけれども、まあ、私の流儀で言うならば、いるだけは(風が持て来るこの葉かな?)というようにです、もう、本当に沢山な御布施があったから、なら念入れて拝む。
全然なかったから、まあ、ザッと拝むといったようなことではなくて、これは、宗教人としての、まあ、心掛けでもなからなきゃならんけれども、なら、現代の宗教の中にでもです、そういう、いわゆる定価表が出けるような、銭金でこう決まるような在り方に、何か段々なって来た、当たり前のようなことだけれども、これでは何とはなしに一つの仁とか豊かさとか、ね、本当に有り難さといったようなものは、尚更感じられないようなことになりつつような思いが致します。
そういう意味で、私はれいゆう会のその先祖を大事にする、それだけで良い。別に、それこそお話一つないと言うけれども、もう、それだけでも私はれいゆう会の在り方を買います。同時に、今、合楽で言われております、(新?)大払い信行といったような、その毎日大払いを、まあ、それこそ五巻も十巻も御神前に、しかもおかげを頂かなければならんから拝むというのじゃなくてです、もう、無条件に大払いを奏上するという一つの笹屋かな運動が、今、合楽で起こっております。
(わたるさんでも、あの、ゆうぞうさん?)辺りでも、こうして御神縁があるのですから、一遍騙されたと思うて、大払いの一つも覚えて、さあ、お母さんを中心にして御神前で、もう、これは無条件です。大払いの十巻のあげる気になってご覧なさい。確かに素晴らしい心の状態が開けて来るです。
その素晴らしい心の状態がおかげを必ずキャッチするです。幸せをそれで、まあ、( )と言うでしょうかね。そういうシステムが、この世の中にはあるようです。お先祖を中心にして、いよいよ大事にさせて頂いて、三十年祭は、まあ、このようにして、まっ、出来ました。
ですから、次はまた三十五年祭には、もちっと私どもの心がもっと開けた心で、三十五年祭が奉仕出けたら、いよいよ御霊様と共に、私ども、残っとる遺族の者もより助かって行く、なら、より、まあ、今日の御霊様のことで頂いたようにです、ね、より優雅なというかね、それこそ貧争病のない世界に住み、その上、真善美に輝く世界に住まわせて頂くというようなおかげを頂くことこそ、本当に神様の願いであり、または、御霊様の願いであるという風に私は思います。どうぞ、まあ、不行き届きながら、只今無事に霊祭を終わらせて頂きました。有り難うございました。